心 旅
「心」を意味する英語のハート(HEART)の語源には心臓の意味もある。漢字の心の成り立ちも、心臓の形をかたどったものだった。「心が痛む」「心が躍る」という表現もある。洋の東西を問わず、人は胸の奥で規則正しく静かに鼓動する心臓に、心の存在を感じていたのだろうか。
現代人は心臓をただ全身に血を巡らせるポンプのような臓器としか考えていない。実際に痛んだり、踊ったりしているのは脳だからである。だが、脳が痛む、脳が躍るではいかにも味気ない。まして思慮のなさを意味する「心無い」が「脳ない」では意味は通じない。ほんの少しの気持ちを示す「心ばかり」が「脳ばかり」では全くわからない。
金銭欲、色欲、名誉欲、飲食欲、睡眠欲は人間の五欲である。これらを取り払った心の奥底には一体何があるのか。古来より多くの思想家、宗教家がこの命題に取り組んできた。中国神話に登場する名君の一人に舜(しゅん)という聖人がいた。この舜の心には悪がなかったばかりか、善もなかったと評したのが、江戸時代の陽明学者・熊沢蕃山(くまざわばんざん)である。善も悪もないのが心の本質だという。善にこだわれば、そこに作為が生まれ、鏡のような心になれない。心が鏡ならば来る人を拒まず、去る人も追わず、あるがままに受け入れる。“明鏡止水”という邪心のない心境である。煩悩ばかりの身には、せめて悪に触れない心であってほしいと祈るばかりだ。
「トランプ2.0」に明日の経済を憂える。米国が関税強化、減税、移民規制を行うことでインフレと景気悪化のスタグフレーションを招くのではないか。鏡の心なら、ただ映るものを受け入れることが一番いいのであろう。予断を持つほど偏見や先入観にとり込まれる。とはいえ、人の浅知恵がそれを邪魔する。
同じ時代を同じように生きている。そこに人間同士の感情(心)のつながりが生まれる。みんなが笑顔で生きる世界を否定する人はいない。にもかかわらず、争いはあちこちにあり、繰り返されている。ただ、鏡のように映しだすだけでは解決できない問題がある。鏡はあくまで受動的で、能動的に切り開くことでしか解決できないものもあるのだ。明鏡止水の心境とは人が誰ともかかわらないことでしか、実現できないのかもしれない。それゆえ、心の問題は人の世で常に問われ続けてきたのだろう。明日も心は旅路の途中か。
<レーダーより>