独自の観察眼
「初めて『ジャック』にやって来たタモリは背広姿でパッとしないサラリーマンのようないでたちであった」(近藤正高著『タモリと戦後ニッポン』)。ジャックとは新宿ゴールデン街のスナック「ジャックと豆の木」のこと。山下洋輔、赤塚不二夫など個性の強い面々が毎晩のように飲み明かしていた。そこで山下が演奏旅行した時に、福岡のホテルで出会ったタモリのインチキ外国語芸の面白さを何度も語った。店のママが「そんなに面白いなら呼ぼう」と、常連客から新幹線代のカンパを募り呼んだことが、タモリデビューのきっかけになった。1975年の夏のことである。
店の常連でタモリの芸にほれ込んだ赤塚はその夜、目白の自分のマンションの部屋に泊まれと誘う。飄々としているタモリだが、当時から笑いで生きていくという目標をしっかり持っていた。しかも30歳になったら一生の仕事を見つけるという決意も内に秘めていたようだ。一部の仲間内芸が、表舞台へと動き始めた。その夏の終わりには赤塚絡みでNET(現テレビ朝日)の昼番組「土曜ショー」に登場し、出演者やスタッフたちを魅了する。これをテレビで見ていた黒柳徹子が突然「徹子の部屋」に呼ぶほどの衝撃だった。
トレードマークのオールバックにサングラス。素顔に特徴がないのでテレビ局のディレクターが持っていたサングラスを掛けさせたのが始まりだった。1976年秋には「オールナイトニッポン」のパーソナリティとなるが、テレビ出演はタブーに抵触しかねないと難色を示す向きもまだ多かった。タレントにも「先輩の前で芸をやるときはサングラスをとれ」と怒りだす人がいたという。「近所付き合いは窮屈だし、土地も狭い、食べ物はまずい、人間がせこい」と田舎をくさすタモリ。デビュー当時は名古屋イジリをネタにしていたこともある。夜のイメージの強いタモリが、昼の「笑っていいとも!」に登場したのは1982年。2014年まで8054回も続く怪物番組になるとは誰も思ってはいなかった。トークの面白さ、生番組のハプニング、“軽(かる)チャー”路線を体現する。さらにマイナーなものを取り上げる「タモリ俱楽部」、「ブラタモリ」へと活躍の場を広げた。近藤氏は「面白みのないものを面白くする」独自の観察眼がタモリの武器と評する。だが、タモリが世に出るきっかけを作り、反対を押し切って番組を提供してきた人たち。その観察眼にも敬意を表する。
<レーダーより>