丸セパ 即納 共栄製作所株式会社のホーム > 共栄ニュース > 共栄ニュース 2024年10月号 -第408号-

昼飯、何にする?

 「今日の昼飯は何にしようか」。近くの蕎麦屋、中華料理店、それともコンビニ弁当、ほか弁――――などと考える。

 庶民に一日三食が定着したのは江戸時代に入ってからである。それまでは上流階級や寺院以外は朝、夕の一日二食だった。幕府が開かれて50年ほど経過、ようやく世の中は落ち着き貨幣経済も発達し、食習慣が変化していった。

 こうして、朝食と夕食の間に、昼食が加わっていく。しかし、力仕事をする人は当時も簡単な食事をしていたという。ただ、あくまで間食であり、仕事のない日は食べなかったこともあって食事としてカウントしていなかった。

 この時代の昼食はどのようなものだったか。「大名でさえも弁当として焼いた握り飯を食べていた」と、食文化史家の酒井伸雄氏は『日本人のひるめし』で紹介している。家光の頃、御伽(おとぎ)衆となった大名たちは弁当を持って登城、萩の間に集まり昼食をとり、珍しい総菜があれば分け合っていた。

 権謀術策(けんぼうじゅっさく)ばかりの江戸城ではない。「一緒に飯でも食べよう」は、ただ食事をしようという意味ではない。コミュニケーションを図る意味もある。弁当箱はもちろん木製。木材を薄く削って作る経木(きょうぎ)の箱や、薄い板を曲げて作る曲げ物、板をさし合わせる指物(さしもの)。漆塗りもあった。木は余分な水分を吸収するので、米の口当たりがよいのである。

 明治になると多くの産業が生まれ、教育制度も整い、自宅以外で昼食をとる人が増えた。明治後半にはアルミの弁当箱も登場したが、梅干しの酸に弱かった。昭和の初めには、理化学研究所がアルミの表面に酸化被膜を生成するアルマイトを開発し、アルマイト製の弁当箱が主流になる。しかし、その弁当箱もいまのプラスチック製や保温型弁当箱に追いやられた。弁当箱にも技術の進歩があるのだ。

 日本最初の駅弁は、宇都宮の旅館白木屋が鉄道会社の要請で販売した。梅干し入りの握り飯にゴマをふり、沢庵を添えたもの。質素だったが、結構売れたようだ。その後、全国でご当地駅弁が登場するが、なかでも人気の駅弁は、信越本線・横川駅の「峠の釜めし」だ。駅弁ブームに目を付けた栃木県益子町の窯元が、釜めし弁当を売れば釜も一緒に売れると考えた。窯元の試作品を見て、弁当製造業者と商談が成立。雑誌のコラムに取り上げられたこともあり、大ヒット商品となった。                                       

<レーダーより>